番組ch(NHK): 2025/01/26(日) 20:33:35
べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(4)『雛(ひな)形若菜』の甘い罠(わな)★5 (565)
- 147 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:43:18.00 ID:Nm7qR1fL
- 吉原の連中もグルだった?
- 177 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:43:31.85 ID:ndy3WQwy
- >>147
頭固い爺さんだな
- 193 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:43:43.67 ID:drC46G8m
- >>147
吉原の人らは知らなかったんじゃね
- 268 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:44.40 ID:RwbFhD9Y
- >>147
忘八どもは違う
でも、彼らはどっちでもいいんだよ
自分たちの金は全然出してないんだから
- 221 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:14.87 ID:LSFvpqCI
- 去年より圧倒的に面白いと思うのは俺だけか
- 259 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:37.09 ID:U7RZJtj6
- >>221
ワイもやで
- 275 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:48.01 ID:YxPlxZEe
- >>221
俺もそう思う
- 303 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:45:09.35 ID:9X91l8iF
- >>221
俺も
- 315 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:45:24.85 ID:tqr1TkrZ
- >>221
去年のカスよりよっぽどセックス&バイオレンスしてるよな
- 341 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:46:16.02 ID:NwS0Yviw
- >>221
去年も恋愛パート以外はおもしろかった
今年も面白い
- 343 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:46:24.24 ID:vuqNqywK
- >>221
俺もやわ
昨年のは割と初期でで離脱したからな
- 375 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:47:43.04 ID:CLFRlCtv
- >>221
単純な面白さでいうとそうだね
でもあっちはなんか独特の風情と雰囲気を楽しめたから、別の食べ物のようで単純比較はできない
- 397 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:49:03.66 ID:SYQi87qP
- >>221
男性と女性で全く違うだろうな?
去年のは予習が必要だった、時代や文献など
今年のはNHK大奥見たレベルで充分理解できる
- 405 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:49:39.19 ID:hkvFGpMF
- >>221
去年は去年で面白かったわ
題材が恋愛物なんだから恋愛沙汰楽しめないとツマラン感じるのもしゃーないが
- 408 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:49:43.22 ID:5dfzpxz7
- >>221
去年も今年も面白いよ
- 411 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:49:54.56 ID:se2QD3Ad
- >>221
去年はこれに比べると主人公が空気だった
- 415 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:50:07.85 ID:5M7NwINc
- >>221
スピード感あるからね
- 423 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:50:37.08 ID:Gs3h2ZkR
- >>221貴族とかより町人文化が面白いよね
- 457 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:52:38.62 ID:OrfxM7nH
- >>221
拗らせたオバちゃんの妄想をドラマ化しただけだから他の人には面白くないのは当然ね(´・ω・`)
- 459 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:52:45.70 ID:qY+9/ez8
- >>221
去年より男も女も絵面が綺麗で目でも楽しめる(ルッキズム)
- 188 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:43:40.80 ID:5aF6K/dX
- 一年やるために無理矢理幕府パート入れてる感
- 263 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:40.47 ID:TiyFjjjD
- >>188
ああ、なるほど。企画した人褒めても良いのでは
- 285 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:52.56 ID:hBG23oR3
- >>188
そのうち心さんのターンになって蔦重を苦しめるからそこまで待ってて
- 347 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:46:30.02 ID:hkvFGpMF
- >>188
めっちゃ蔦重に繋がる伏線のようだぞ幕府の今の流れ
- 250 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:44:33.08 ID:jqnPxBL5
- 御三家→家康が作った跡継ぎ対策
御三卿→吉宗が作った跡継ぎ対策 - 323 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:45:30.00 ID:QWnFgxvP
- >>250
一応御三家の方が優先されるの?
- 365 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:47:04.00 ID:jqCtLM/m
- >>250
吉宗は自分の血で繋ぎたかっだけのよな…
- 447 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:51:50.10 ID:aCv7nb/O
- >>250>>365
ただ御三家は流石に将軍家と血筋が離れすぎているという議論は吉村継承の頃からあったので、御三卿はそれへの対応という意味合いもあった
実際、吉宗ほど将軍家と血筋が離れてる人物が継承するのは西欧や中華だと王朝交代とみなされる事案
- 473 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:54:07.50 ID:jL8SKAlx
- >>250
暴れん坊将軍、意外に器が小さいな(´・ω・`)
- 309 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:45:14.79 ID:SlGZmsvc
- 御三卿って一橋家だけが有名だよね
- 350 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:46:35.71 ID:ygSRYq+j
- >>309
水戸から初めての将軍だから
- 360 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:46:58.95 ID:M9u0/x90
- >>309
家斉と慶喜の将軍2人出てるからね
田安は松平定信が出身ってことくらい
清水はマジで空気だし
- 407 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:49:41.49 ID:HOXvdckm
- >>309
清水家は20年間くらい当主不在だったりしたからね
- 428 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:50:48.53 ID:DXC0Qzmo
- >>282
写楽は絵師としては二流以下だったんだろ
海外で評価されてから有り難がってるだけで
ガキの頃から素人目にも上手いなら北斎だな - 443 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:51:37.01 ID:ndy3WQwy
- >>428
写楽はお手本通りの上手い下手で評価されてるわけではないので
- 448 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:51:54.44 ID:we5F4YpA
- >>428
写楽は副業で絵を描いてたからな
- 496 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:57:24.63 ID:I9AZidA0
- >>428
蔦重と一緒にいるNHK公式サイトでは「謎の少年」と説明されてる
唐丸という この子供は… 北斎?
葛飾北斎(かつしか ほくさい、旧字体:葛飾󠄁 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)
北斎は『富嶽百景』や『画本彩色通』の跋文で
6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており
少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが
『葛飾北斎伝』を校注した鈴木重三は
貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している
- 446 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:51:45.23 ID:U4JqSXzX
- 中世キリスト教社会もそうだけど近世日本武家社会でも金儲けって忌み嫌われるな
銭は大事なのに何故か見下される - 470 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:53:35.74 ID:tVaeuu9d
- >>446
カール5世とヴァロワ家フランソワ1世の神聖ローマ皇帝選挙で
フッガー家の莫大な財力で皇帝選挙勝ち抜いたハプスブルクのカール5世のころかw
- 489 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:56:01.31 ID:hkvFGpMF
- >>446
宗教的に商売が神聖扱いされるのなんてイスラム教の一部ぐらいしか知らんぐらいなぜか下賤扱いされるのなんでだろ
- 491 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 20:56:22.17 ID:we5F4YpA
- >>446
封建主義社会で金をもった商人は社会秩序を破壊する可能性があるからね
田沼意次はそれを見越して幕府が商人を押さえるべきって重商主義をとろうとしてた
- 513 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:00:23.94 ID:HSOe7KV4
- 政治パートも面白いのは確かなんだが
もう少し説明と言うか背景の説明をしてやらんと
この時代に詳しくない人がついて行けんような
ナレーションか少し説明臭くなっても
キャラにもう少し背景事情を語らせても良いような - 519 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:02:54.47 ID:YcR+NFEj
- >>513
自分がまさにソレ
日本史弱くて…
- 523 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:04:09.35 ID:SYQi87qP
- >>513
将軍幕閣ともドロドロなので面白いけど大奥になっちゃうんだよな
確かに庶民ばかりで時代背景の説明は薄い
- 525 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:04:41.65 ID:RwbFhD9Y
- >>513
それはこれからこれから
ナベケンが改革派・石坂浩二が保守派で政治的立場が反対、心さんが頭でっかちの潔癖&吉宗大好きでナベケンを嫌ってる、
生田斗真がなんか企んでる、ってだけわかれば今のところはそれで十分
- 537 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:15:09.65 ID:EQisGWvl
- 三井の歴史 [明治期] 呉服業の終焉と
三越の始まり 執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三越伊勢丹
明治維新後、近代化の波が押し寄せる一方で、旧態依然の商法や体質は時代から取り残されつつあった。三井組におけるそのひとつが越後屋呉服店である。越後屋は家祖・三井高利から続く三井家の家業であり、両替店とともに本業であったが、幕末から明治にかけての呉服業は不振を極めた。
高利が考案した画期的商法の数々もこの頃になると同業者間では一般的となり、さらに倒幕による武家社会の崩壊は得意先の喪失を意味した。そこへ洋服も登場し、経営の圧迫に拍車をかけた。三井の統括機関である大元方も両替店の資金繰りを割いて呉服業の救済に乗り出すが、一向に成果は上がらなかった。
「丸越」は後に三越の店章となった 明治5年(1872)の正月、三井首脳陣は大蔵大輔・井上馨の邸に招かれ、そこで「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念せよ」と内命を受けた。銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを了承した。とはいえ、伝統の家業を疎かにはできない。
東京・京都・大阪の重役が集まり協議した結果、越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、新たに「三越家」を興し、三井家が三越家へ呉服業を譲渡する形を取り分離独立させることにした。「三越」の2文字は三井の「三」と越後屋の「越」の字に由来する。
三井家の中から伊皿子家7代当主・三井高生の次男・高信に三越得右衛門を名乗らせ当主とし、店章も「丸に井桁三」から「丸越」に改めた。
明治7年(1874)、日本橋駿河町に三越家経営の越後屋が新たに開店。明治19年(1886)には洋服部を新設し、明治21年(1888)に洋館建物「三越洋服店」をオープンさせた。
この頃、明治16年(1883)に「鹿鳴館」が完成し、華族と在日外国人の社交場として洋装の発信地になっていた。また、越後屋のライバル・白木屋も先んじて明治19年に洋服店を開いていた。
越後屋を合名会社とした「三井呉服店」 しかし、洋服は一般庶民までには中々浸透せず、三越洋服店は閉鎖。明治26年(1893)の商法施行に際し、三越得右衛門を三井姓に戻し、越後屋を合名会社に改組。再び三井家の事業とし、「三井呉服店」と改名、店章は「丸に井桁三」に戻された。
ここに三井高利から続いた「越後屋」の店名は失われた。高利が延宝元年(1673)に江戸で越後屋を開いてから230年、もはや呉服業は三井の主流事業ではなかった。 - 538 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:19:18.08 ID:EQisGWvl
- >>537 明治28年(1895)、慶応大学出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、ガラス張りショーケースの陳列や「意匠部」を新設するなど三井呉服店の近代化を図った。
高橋は中上川彦次郎を通じて三井銀行本店副支配人の日比翁助に三井呉服店入りを勧め、明治31年(1898)、日比は三井呉服店副支配人となり、近代化改革をさらに推し進める。
明治37年(1904)12月、三井家の事業再編の中で三井呉服店は再び分離され、株式会社化した上で「三越呉服店」と名称を変更、店章を「丸越」と定める。
三越の専務となった日比は設立された同月、「デパートメントストア宣言」を全国主要新聞に広告掲載し、日本初の百貨店としての道を歩み始めた。明治39年(1906)、日比は欧米を視察し、イギリスのハロッズ百貨店を目標に決め、同年、洋服部を再開。靴、洋傘など三越ならではの輸入品を販売し、品揃えの幅を広げていった。また、宣伝にも工夫を凝らし、有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」も生まれた。
大正3年(1914)、三越呉服店の本店(現日本橋三越本店)はルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエスカレーターが設置され、全館暖房となり、時代をリードする百貨店となった。
ちなみに日本橋三越本店の正面玄関にある2頭のライオン像は大正3年、支配人だった日比翁助のアイデアで設置された。モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像で、それを模した彫刻家・メリフィールトの模型を鋳造家・バルトンが制作した。
日比はライオン好きで、自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどだった。このライオン像は待ち合わせ場所や合格祈願の逸話が生まれるなど、三越のシンボルとして、現在も親しまれている。
なお、三越呉服店が正式に「三越」の名称となったのは昭和3年(1928)のことである。
- 548 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:07:27.92 ID:EQisGWvl
- >>537 >>538 ホーム 三井の歴史 江戸期 三井家発祥の地・松阪 三井の歴史 [江戸期]
三井家発祥の地・松阪 執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫 三井家の系譜は古く、家伝によると平安時代の関白太政大臣・藤原道長の後裔とあるが史実による確証はない。道長の6男・長家から5代目の藤原右馬之助信生が平安末期の1100年頃、京都を離れ、近江に移り住んだとき、藤原姓を捨て、初めて三井姓を名乗った。
「三井」という姓については、信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったため、これを祝して三井姓に改めたと伝えられている。
三井右馬之助信生は近江に地方官として赴任・土着し、武士となったが、信生から12代目の三井出羽守乗定は男子に恵まれなかった。当時、三井家は源氏の流れを汲む守護大名・六角佐々木氏に仕えており、そこから養子を迎え、その養子は三井備中守高久と名乗り、家紋を佐々木氏と同じ「四つ目結」とした。また、高久以降、三井一族の当主は名前に「高」の字を付けるようになった。
三井家の系譜 高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から5代目・三井越後守高安の時代に天下統一を目指す織田信長が、上洛のため近江に攻め入り、六角氏の諸城を次々攻め落とし、六角氏は滅ぼされた。
主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、その後、三井一族は津、松阪などを流浪し、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とし、高安はその地で没したとされている。この高安が三井グループの祖・三井高利の祖父であり、「三井家の遠祖」と呼ばれる。
- 552 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:14:51.33 ID:EQisGWvl
- >>551 >>537高利は息子達に指示し、江戸随一の呉服街である江戸本町1丁目に間口9尺の店を借り受けさせ、「越後屋三井八郎衛門」の暖簾を掲げ、「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業。次いで京都に仕入れ店を開いた。京都の店は高平、江戸の店は高富が管理し、高利は江戸に赴くことなく、松阪にあって采配を振るった。
なお、「越後屋」の屋号は松阪の店から受け継いだもの、「八郎右衛門」は高利の字あざなである「三井八郎兵衛高利」にちなんで高平が「三井八郎右衛門高平」と名を改めたことによる。この「八郎右衛門」は三井家の名跡として、総領家当主が代々、襲名することとなる。
経験を積んだ息子や人を配し、呉服店を開店させたとはいえ、当時の江戸にはすでに老舗大店が幾店も軒を連ねていた。このような難局に対し、高利は天才的な創意で新機軸の商法を編み出していく。
江戸時代にもてはやされた越後屋の版画(画像提供:三越伊勢丹) その代表的な商法が「店前たなさき売り」と「現銀(金)掛値なし」である。当時、一流の呉服店では、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的であり、支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの掛売りが慣習であった。
そのため、貸倒れや掛売りの金利がかさむので、商品の値が高く、資金の回転も悪かった。高利はこの制度を廃止し、店前売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制による店頭販売での現金取引を奨励した。現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払いの仕入れ先には数倍活用された。
もうひとつは呉服業者間では禁じられていた「切り売り」の断行である。当時は一反単位の取引が常識で、どの店も一反から売っていたものを、客の需要に応じて切り売りし、江戸町民の大きな需要を掘り起こした。
このほか、「即座に仕立てて渡す」というイージーオーダーである「仕立て売り」も好評を呼び、越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。
- 556 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:45:02.87 ID:EQisGWvl
- >>552 >>537 ホーム 三井の歴史 江戸期 暖簾印を定め、両替商へ進出
三井の歴史 [江戸期] 暖簾印を定め、
両替商へ進出 執筆・監修:三友新聞社
開店当初から賑わいを見せた高利の越後屋だったが、これまでの慣習を破った新商法は旧態依然の同業者間からは反感を持たれ、店先に糞尿をまかれるなどの営業妨害を受けるようになった。そこで天和2年(1682)、高利は本町1丁目から密かに隣町の駿河町へ店を移転させた。
越後屋の暖簾印「丸に井桁三」 この頃に店内の結束強化と他店との違いを明らかにするため暖簾印として定めたのが「丸に井桁三」である。元々、武家の出である三井家は、近江源氏・六角佐々木氏と同じ佐々木一族の「四ツ目結」を家紋としており、高利も、越後屋の開店時には「四ツ目結」を引き継いだが、その武家紋を改めようというのである。
旧習を重んじる時代にあって、新たな店章を創始するなどは重大事であった。
「丸に井桁三」がいつから用いられてきたのか正確な年月は明らかではないが、延宝5年(1677)、高利が56歳のころではないかとされている。少なくとも、江戸店が本町から駿河町へ移転する天和3年(1683)より前であることは間違いない。
着想は高利の母・殊法の夢想によるものと伝えられ、丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味している。
このマークは三菱のスリーダイヤ、住友の井桁と並び三井グループを代表する商標として、今も一部の三井系各社の社章に受け継がれており、各社それぞれに井桁の太さや三の字に微妙な違いがある。
呉服業に遅れること10年、高利は天和3年(1683)に店舗を拡張し、両替店を開店させ、貞享3年(1686)に仕入れ店のある京都にも両替店を開く。高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。
当時、上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。また、幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。
しかし、正貨輸送は労賃がかかるほか、危険の多い不便なものであったため、これに代わる方法として、高利が幕府に為替の仕組みを献策したのである。三井家は御側用人だった牧野成貞(常陸国笠間城主)の理解を得て、元禄4年(1691)、幕府から大阪御金蔵銀御為替御用を命ぜられ、三井両替店は幕府の為替御用方としての地位を確立。同年、大阪に江戸両替店を出店させた。
- 542 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:45:51.55 ID:s7BfkFRs
- 正直見てるけど眠くなる・・・・・・・
最後の方はなんではめられたのかわからんw
説明よろw - 544 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:46:26.59 ID:SbTRAkHG
- >>542
つべで
べらぼう 解説
とかで検索しろ
- 545 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:51:51.45 ID:Gs3h2ZkR
- >>542儲けを独占したいんだろね
- 538 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 21:19:18.08 ID:EQisGWvl
- >>537 明治28年(1895)、慶応大学出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、ガラス張りショーケースの陳列や「意匠部」を新設するなど三井呉服店の近代化を図った。
高橋は中上川彦次郎を通じて三井銀行本店副支配人の日比翁助に三井呉服店入りを勧め、明治31年(1898)、日比は三井呉服店副支配人となり、近代化改革をさらに推し進める。
明治37年(1904)12月、三井家の事業再編の中で三井呉服店は再び分離され、株式会社化した上で「三越呉服店」と名称を変更、店章を「丸越」と定める。
三越の専務となった日比は設立された同月、「デパートメントストア宣言」を全国主要新聞に広告掲載し、日本初の百貨店としての道を歩み始めた。明治39年(1906)、日比は欧米を視察し、イギリスのハロッズ百貨店を目標に決め、同年、洋服部を再開。靴、洋傘など三越ならではの輸入品を販売し、品揃えの幅を広げていった。また、宣伝にも工夫を凝らし、有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」も生まれた。
大正3年(1914)、三越呉服店の本店(現日本橋三越本店)はルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエスカレーターが設置され、全館暖房となり、時代をリードする百貨店となった。
ちなみに日本橋三越本店の正面玄関にある2頭のライオン像は大正3年、支配人だった日比翁助のアイデアで設置された。モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像で、それを模した彫刻家・メリフィールトの模型を鋳造家・バルトンが制作した。
日比はライオン好きで、自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどだった。このライオン像は待ち合わせ場所や合格祈願の逸話が生まれるなど、三越のシンボルとして、現在も親しまれている。
なお、三越呉服店が正式に「三越」の名称となったのは昭和3年(1928)のことである。 - 548 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:07:27.92 ID:EQisGWvl
- >>537 >>538 ホーム 三井の歴史 江戸期 三井家発祥の地・松阪 三井の歴史 [江戸期]
三井家発祥の地・松阪 執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫 三井家の系譜は古く、家伝によると平安時代の関白太政大臣・藤原道長の後裔とあるが史実による確証はない。道長の6男・長家から5代目の藤原右馬之助信生が平安末期の1100年頃、京都を離れ、近江に移り住んだとき、藤原姓を捨て、初めて三井姓を名乗った。
「三井」という姓については、信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったため、これを祝して三井姓に改めたと伝えられている。
三井右馬之助信生は近江に地方官として赴任・土着し、武士となったが、信生から12代目の三井出羽守乗定は男子に恵まれなかった。当時、三井家は源氏の流れを汲む守護大名・六角佐々木氏に仕えており、そこから養子を迎え、その養子は三井備中守高久と名乗り、家紋を佐々木氏と同じ「四つ目結」とした。また、高久以降、三井一族の当主は名前に「高」の字を付けるようになった。
三井家の系譜 高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から5代目・三井越後守高安の時代に天下統一を目指す織田信長が、上洛のため近江に攻め入り、六角氏の諸城を次々攻め落とし、六角氏は滅ぼされた。
主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、その後、三井一族は津、松阪などを流浪し、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とし、高安はその地で没したとされている。この高安が三井グループの祖・三井高利の祖父であり、「三井家の遠祖」と呼ばれる。
- 551 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:12:43.15 ID:EQisGWvl
- >>550 >>538 三井の歴史 [江戸期] 越後屋誕生と
高利の新商法 執筆・監修:三友新聞社
江戸に下った三井高利は長兄・俊次の下で修行を重ね、その類まれな商才を発揮していく。だが、慶安2年(1649)、母・殊法の面倒を見るため松阪へ帰郷していた重俊が36歳の若さで他界した。
駿河町に移転後の越後屋の印(『三井事業史』より)
俊次から才腕を忌避されていた高利は、重俊の代わりに母の面倒を見るよう言い含められ、単身、松阪へ帰国する。江戸奉公に出てから14年目、高利28歳のときであった。
郷里で高利は妻・かねを迎え、やがて10男5女もの子宝に恵まれていく。母に孝養を尽くしながら江戸出店の機会を待った高利は、松阪での家業を拡張し、商業に加えて金融業を営み、資金を蓄積していった。
高利は、自分の子どもたちが育つにつれ、15歳になると、男子は江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。また、知り合いの中で眼鏡にかなった若者たちも、手代見習いとして江戸に送り込み、江戸で雄飛する日が来るときのための基礎固めを着々と行っていたのである。
高利が松阪に帰って24年目の延宝元年(1673)、長兄・俊次が病死を機に高利は、殊法の許しを得て、宿願であった江戸進出を実行に移す。
高利はすでに52歳の老齢であった。このとき江戸で修行中の息子達は長男・高平は21歳、次男・高富は20歳、3男・高治は17歳に達していた。
- 557 : 公共放送名無しさん: 2025/01/26(日) 23:47:14.21 ID:EQisGWvl
- >>556 >>538 この公金為替は幕府の大阪御用金蔵から公金を受け取り、これを60日~150日後に江戸城に収めるもので、三井では大阪で委託された額を越後屋の売り上げから収めた。
公金に利子はつかないが、その運用による利回りは相当なものであった。この為替御用方は明治維新で幕府が倒れるまで続き、この金融事業は明治の後、三井銀行の母体となる。こうして、高利の越後屋は江戸・京都・大阪の3都にまたがり営業基盤を整えていった。
三井の事業を拡張していった高利は貞享3年(1686)、65歳になって京都へ居を移してから晩年の8年を過ごし、元禄7年(1694)、73歳で没した。高利はその遺言により故郷の松阪ではなく、京都の鈴聲山真正極楽寺真如堂(京都市左京区)に葬られた。
これを機に三井家は真如堂の檀家となり、高利をはじめとする三井家関係者の祭祀は300年以上にわたって連綿と続けられ、
今も多くの三井グループ各社による法要が執り行われている。
- 563 : 公共放送名無しさん: 2025/01/27(月) 11:00:55.64 ID:4QgCNZKO
- >>538
中上川彦次郎も慶応
https://www.keio.ac.jp/ja/
明治28年(1895)、慶応大学出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており
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