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BS実況(NHK): 2025/11/23(日) 09:02:24
大河ドラマ べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ ★111 (1002)
121 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 12:40:24.57 ID:733kgyxx0
旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡- - 江戸東京博物館 https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/sp/s-exhibition/project/2510/旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡- 2009.12/12(土)〜2010.02/07(日)
旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡-
読み上げる        兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館には旗本浅野家に関する古文書「若狭野浅野家資料」が所蔵されています。旗本浅野家は、現在の兵庫県相生市若狭 野に陣屋を構えていた大身旗本で(知行3000石)、あの元禄赤穂事件で著名な赤穂浅野家の分家です。しかも、赤穂事件の立て役者大石良雄の父の従弟長恒 が浅野家の養子となって成立した旗本でもありました。同家は、こうした来歴から赤穂浅野家から特に重んじられ、赤穂本家改易後に同家の事後処理を担い、そ の文書などを引き継ぐこととなりました。よって「若狭野浅野家資料」には、江戸文化を語るうえで見逃せない赤穂事件関連の古文書が多く伝存することとなり ました。
江戸東京博物館では龍野歴史文化資料館の協力を得て、平成20年度からこの赤穂事件と関わりの深い「若狭野浅野家資料」の調査を進めてきました。その成果を平成21年度企画展「旗本がみた忠臣蔵―若狭野浅野家三千石の軌跡―」と題して展示します。忠臣蔵人気に沸く世相を横目にしつつ、赤穂主従を静かに回向し続けた、 旗本若狭野浅野家三千石の軌跡をご覧下さい。
展示構成            第1章~第4章では、赤穂事件以前の平穏な時代における赤穂浅野家の様子と、分家旗本3家の成立事情について展示します。
第5章~第7章では、元禄赤穂事件が若狭野浅野家に与えた影響について、とくに、江戸鉄炮洲上屋敷の収公から明らかにします。また、事件後、改易となった赤穂本家を静かに回向する若狭野浅野家の姿についてとりあげます。
 プロローグ     若狭野浅野家に伝来した甲冑(相生市立歴史民俗資料館蔵)をご覧いただき、赤穂浅野家の分家旗本若狭野浅野家について、簡単に紹介します。
243 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 14:36:54.30 ID:733kgyxx0
>>121 第1章 赤穂浅野家四代 「若狭野浅野家資料」のうちで注目すべき古文書の一つに赤穂浅野家4代の口宣案があります。口宣案とは、大名が朝廷から官位官職を受けた際に、幕府 経由で発給された文書の一つです。大名の身分に関わる重要な文書で、どの大名家でも大切に保管していました。江戸時代前期に改易された大名家の口宣案が伝 来することは珍しく、たいへん貴重な古文書です。この口宣案を中心として、浅野家4代の事跡を展示します。
 第2章 旗本浅野三家の活躍         赤穂浅野家には3つの分家旗本(若狭野浅野家・家原浅野家・浅野大学家)がありました。いずれも赤穂本家を助けるために赤穂浅野家の領知を分け与え られて成立した家々です。そのため刃傷事件の際には、「遠慮」「閉門」処分を受けるなど、多大な影響を受けました。とくに若狭野浅野家は、大石良雄の父の 従弟長恒が大石家から浅野家に養子となって成立した家で、事件の際にはその事後処理にあたるなど、影響は甚大でした。ここでは、赤穂浅野家と運命をともに した分家旗本3家の成立事情を若狭野浅野家を中心に展示します。
  第3章 将軍綱吉と浅野家          元禄赤穂事件(殿中刃傷事件・吉良邸討入事件)は、「犬公方」と称された5代将軍綱吉の存在抜きには語れません。というのも、事件の裁定にあたって は将軍の意向が強く働いたからです。ここでは、その将軍綱吉の事跡を中心に、赤穂事件の時代背景をお伝えします。あわせて、同時代に綱吉政権下のよき官僚 として活躍した若狭野浅野家初代長恒の事跡について、とくに伊勢山田奉行としての活躍を中心に取り上げます。
244 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 14:39:27.84 ID:733kgyxx0
>>243 >>121 第4章 赤穂事件とその事後処理           赤穂浅野家の江戸上屋敷は鉄炮洲にあり、赤穂事件以後、小浜酒井家の上屋敷となりました。「若狭野浅野家資料」には、赤穂事件で収公される直前の 「鉄炮洲屋敷図」が含まれています。また小浜市立図書館「酒井家文庫」には収公後、小浜酒井家上屋敷となった直後の「鉄炮洲御屋敷惣絵図」が伝蔵されてい ます。ここでは、赤穂事件以前と以後の変化を如実に物語る二つの屋敷絵図史料を中心に、赤穂事件の概要とその影響を展示します。
 第5章 忠臣蔵の誕生         赤穂事件は、その最中から江戸っ子の耳目を集め、のちの江戸文化において、様々な素材となっていきます。ここでは「若狭野浅野家資料」を離れて、徳 川林政史研究所に所蔵されている片岡源五右衛門関連の古文書をとりあげ、義士の伝説化の動きに注目します。また、江戸東京博物館所蔵錦絵を中心として、赤 穂事件が「忠臣蔵」として江戸文化の中で花開いた様子をご覧いただきます。
 第6章 はたらく旗本三千石           若狭野浅野家は、赤穂事件以後、赤穂本家に連座して「遠慮」を申し付けられ、在任中であった山田奉行を辞任に追い込まれます。しかし、事件後しばら くすると再び幕府の上級役人としての地位を復活させ、歴代当主によって数々の役職が歴任されていきます。事実「若狭野浅野家資料」には幕府役職に関する多 くの古文書が存在します。ここでは若狭野浅野家が幕府のために精勤する姿から、本家大名の失態を職務に励むことで挽回しようとする分家旗本の姿を描きます。
245 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 14:41:46.93 ID:733kgyxx0
>>244 >>121 第7章 赤穂浅野家と義士の回向
忠臣蔵の人気とは裏腹に、断絶した赤穂本家および本懐を遂げた赤穂四十六士の回向は、幕府をはばかるものでした。しかし、赤穂本家の古文書を引き継 いだ若狭野浅野家は、事件以後、地道にそれらの回向を続けていきます。ここでは、赤穂浅野家の菩提寺台雲山花岳寺(兵庫県赤穂市)の紹介を中心に、若狭野 浅野家による赤穂主従の回向の姿をご覧いただきます。
 エピローグ              明治維新後、幕府をはばかる必要のなくなった若狭野浅野家では、さまざまな思惑のもと、浅野長矩および赤穂義士の復権を歎願し、かれらの名誉回復を はかろうとします。新しい時代における赤穂事件に対する捉え方をこの復権運動からご覧いただきます。関連古文書「(御一新後浅野長矩主従御赦免願)」は必 見です。
主な展示品
おもな展示資料(予定)
・口宣案(豊臣長則(浅野長重))
・浅野長重宛台徳院御朱印状写
・口宣案(浅野長忠(長直))
・浅野長直宛厳有院御朱印状写
・口宣案(浅野長友)
・宣旨(浅野長友)
・口宣案(浅野長矩)
・口宣旨(浅野長矩)
・大石頼母宛山鹿素行血判状(知行指上申度儀ニ付)
・鉄炮洲屋敷図(赤穂浅野)
・(御一新後浅野長矩主従御赦免願)
*すべて、たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵、東日本初公開! 展示予定数 約90点
194 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 12:56:02.35 ID:733kgyxx0
土山 宗次郎(つちやま そうじろう)は江戸時代中期の旗本。名は孝之(たかゆき)。      土山孝祖の子として誕生、母は土山照苗の娘。妻は日下部七十郎の娘。
田沼意次が老中となって田沼時代が始まると、安永5年(1776年)に勘定組頭に登用された。天明3年(1783年)に工藤平助の『赤蝦夷風説考』を読んで対ロシア政策の必要性を提言し、天明4年(1784年)に平秩東作と荒井庄十郎に蝦夷地調査をさせ[注釈 1]、さらに天明5年(1785年)には上役の松本秀持が青島政教を始め、山口高品、菴原宣方、佐藤行信、皆川秀道、里見平蔵、引佐新兵衛、大塚小一郎、大石逸平、鈴木清七、最上徳内らに蝦夷地調査を行わせた[1]。
その一方で、高禄でもないのに大豪邸を築いて豪遊し、吉原・大文字屋の遊女誰袖(たがそで)を祝儀などを含めると1200両を払い身請けするなど派手な生活ぶりが評判となり、親交のあった大田南畝から、狂歌で「我恋は天水桶の水なれや。屋根よりたかきうき名にぞ立つ」と詠まれた[2]。
天明6年(1786年)8月に第10代将軍・徳川家治が死去すると老中・田沼意次が失脚する。土山は同年11月に富士見御宝蔵番頭となるが、その後、買米金500両の横領が発覚して、その追及を逃れるため逐電し、武蔵国所沢の山口観音に平秩東作が匿ったが発見され、天明7年(1787年)12月5日に斬首されている。
寛政元年(1789年)には、土山と誰袖をモデルとした黄表紙『奇事中洲話(きじもなかずわ)』(山東京伝作、蔦屋重三郎版)が出ており、この事件は江戸の人々の耳目を大いに集めたと思われる。
247 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:10:19.24 ID:733kgyxx0
>>194  最上徳内記念館について - 村山市観光物産協会 https://www.murayama-kanbutu.com/観光スポット/最上徳内記念館/ 最上徳内記念館について             村山市楯岡出身の北方領土探検家である最上徳内もがみとくない(1755年から1836年)は、江戸時代の後期、幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地(北海道)に赴いたのが最初で、その後、択捉・国後などの北方諸島を含めて生涯で9回も訪れ調査をおこない、探検家として高い評価を受けました。この偉大な業績を後世に伝えていくため、書物・測量器・北方の地図・択捉島に建立した標柱などの資料を展示しています。
アイヌの館について           最上徳内が北方を探検する際にアイヌの人達と寝食を共にし、アイヌの協力があって偉業を成功させることができました。このように当時アイヌの人々との交流を持っていた最上徳内を偲ぶために、住居全体が茅(葦)葺きのアイヌの住居(チセ)を敷地内に復元建立し、アイヌの生活用具等の展示をしています。
最上徳内の略歴             最上徳内は、宝暦5年(1755)出羽国村山郡楯岡村(現在の村山市楯岡)に父・甚衛兵(または甚介)、母・スマの長男として生まれました。幼名を元吉といい天明5年(1785)の幕府蝦夷地探検の前年に最上徳内と名乗りました。字は子員、号は鶯谷、甑山、白虹斎と称し晩年には億内とも呼ばれています。
家業は、農業のかたわらたばこ栽培を営み、青年期には隣町谷地の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に出かけたといわれています。父が、徳内に向かって「男子たるものは、若干にして生涯の志を立つべきものである。汝どのような心構えがあるか。」と聞いた際には、「蝦夷一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕作の諸事を教え蝦国を上国の風に習わしたい。」と語ったというエピソードが残っています。また二十歳の時、東にそびえる甑岳に登り武士となる決心をしたとも言われています。早くから蝦夷地への思いと武士になる志が芽生えていました。徳内の精神ともいえる信念の強さがここから生み出されたものと思われます。
248 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:12:22.18 ID:733kgyxx0
>>194 >>247 天明元年(1781)江戸に出た徳内は、たばこ屋に奉公しまもなく幕府の医官山田宗俊(図南)について医学を学び、その後、和算の師、永井正峯と算学修業に出かけますが正峯の病気のために中止となります。
この頃、徳内の生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術を学び、かねてより考えていた蝦夷地への夢が、思わぬ算学修業中止により実現することとなりました。
天明4年(1784)幕府内では、ロシアの南下対策として蝦夷地の開拓と交易を目的とした蝦夷地検分・蝦夷地開拓の議が持ち上がり、老中田沼意次は蝦夷地探検隊を組織し、天明5年(1785)山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人の普請役を蝦夷地に派遣することとなり、俊蔵と親しかった本多利明も参加することになっていましたが、急病のため利明の代理として最上徳内が、竿取りという身分で参加し歴史上に登場することになります。これ以後1809年まで9回の幕府蝦夷地探検に従事しました。
徳内が従事した蝦夷地探検の中で、重要なこととして天明6年(1786)の探検があげられます。徳内は、単身エトロフ島に渡り、ここでロシア人が滞在していることを知ります。イジョヨ・サスノスコイ・ニケタの3人と出会い、千島が列島であることや欧州地誌を知ることになります。徳内はアイヌ民族の人達・ロシア人3名のほかただ一人の日本人でしたが、歌い、踊りあたたかな三か国人交流がなされました。徳内は、ロシア人を、クナシリ島に来ている隊長の青島俊蔵に会わせ、時期の遅れないうちにウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となったのです。
249 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:14:45.93 ID:733kgyxx0
>>248 >>194 寛政10年の蝦夷地探検では、徳内は駿河・遠州の山々の監察をしていましたが、急遽、蝦夷地探検を命ぜられました。
この探検は幕府が蝦夷地を直轄地にするためであり、近藤重蔵が隊長となりクナシリ島からエトロフ島を回る渡海でした。
この時、重蔵はまだ若く蝦夷地の経験がないため、徳内を加えてもらおうと幕府に要請し、クナシリ島で徳内と出会い大いに歓迎しています。徳内と重蔵一行は蝦夷舟でエトロフ島に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建立しました。歴史上初めてとなるエトロフ島までの日本領土宣言です。この二つの探検が徳内を国際的視野に立つ歴史上の重要人物たらしめているのです。
晩年徳内は、長崎から江戸参府としてオランダ商館長に随行してきたオランダ商館長医師シーボルトに出会います。会談の中で、日本・支那・西洋の数学やアイヌ民族の風俗・カラフトの地図などを渡しました。
徳内は数十日間シーボルトとアイヌ語の共同編纂を行います。後にシーボルトは「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価しました。
徳内はシーボルトの出会いから十年後天保7年(1836)浅草の田原町で82歳の生涯を閉じました。彼の墓は現在、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られており東京都の指定文化財となっております。
250 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:48:28.39 ID:733kgyxx0
The Bunka Rokō (Bunkarokou) was an incident in which Nikolai Rezanov, a diplomatic envoy sent from the Russian Empire to Japan in 1806 and 1807, ordered his subordinates to attack Japanese bases in the north.[1] The name of the incident comes from the Japanese era name, and it is also known by the Russian side as the Khvostov Incident (Russian: Инцидент Хвостова).
Rezanov's ships and subordinates as recorded by the Japanese side Summary Edit This was a military operation launched by Russia in 1804 during the late Edo period, following a trade demand mission launched by Nikolai Rezanov, who was sent by Russian Emperor Alexander I. Prior to this, in 1792, during the reign of Catherine the Great, Russia sent Adam Laxman to Nemuro to request trade with Japan. However, the Edo Shogunate (Japanese feudal government) did not accept the letter from the Siberian Governor-General and instead ordered the ship to sail to Nagasaki in response to the trade request, issuing Laxman a Nagasaki port permit (certificate). In response, in 1804 (the first year of the Bunka era), Rezanov arrived in Nagasaki bearing the certificate and spent six months urging the Edo Shogunate to negotiate, but the Shogunate ultimately continued to refuse trade.
Forced into near-imprisonment and with no progress in the negotiations, Rezanov came to the view that the only way to force Japan to open its borders was by force.[Note 1] He also planned retaliation against Japan, ordering his subordinates to attack Japanese bases in the north, such as Sakhalin and Etorofu Island. In 1806, Rezanov's subordinate, Nikolai Khvostov, attacked the Matsumae settlement in Sakhalin and later attacked the Shogunate forces stationed on Etorofu Island. The Shogunate, under the command of the newly established Matsumae Magistrate,[Footnote 2] conscripted approximately 3,000 samurai from the Hirosaki, Nanbu, Shonai, and Kubota domains to guard key locations in Ezo, including Sōya and Shari.
251 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:50:02.26 ID:733kgyxx0
>>250 However, these military operations were not authorized by the Russian Tsar, and the displeased Russian Tsar ordered all troops to withdraw in 1808. Accordingly, the samurai guarding Ezo from the various domains also began to withdraw. During this series of incidents, there is a record of a sapphire gun (a type of cannon) being stolen from a Shogunate ship attacked on Rishiri Island (see below).[1] Attack on Sakhalin Edit On September 11, 1806 (October 22, 1806), approximately 20 Russian soldiers landed in a short boat at Hisaharukotan, Sakhalin, and abducted a 17- or 18-year-old Ainu child at gunpoint. On the 13th, approximately 30 soldiers landed again, captured four guards at a shipping house, plundered 600 bales of rice and miscellaneous goods, burned 11 houses, and set fire to fishing nets and boats. They then released the child they had abducted the previous day and returned to their ships.
The Russian ship set sail on the 17th and left the area. Because communication was cut off due to the ship's fire, the incident was not reported to the Matsumae Domain and the Shogunate until April of the following year.
252 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 15:54:42.17 ID:733kgyxx0
>>250 >>251 On April 23, 1811, two Russian ships entered Uchiho Bay, west of Etorofu Island. The guards reported this to the Shogunate's trading post in Shana. Shana, the island's central location and home to the Shogunate's trading post, was guarded by soldiers from the Hirosaki and Morioka domains. Upon hearing the news, Sekiya Shigehachiro, an official under the Hakodate magistrate, led his troops to Uchiho by sea. However, en route, the Morioka domain's guardhouse in Uchiho was attacked, Nakagawa Goroji and five other guards were captured, rice, salt, furniture, and clothing were looted, and the ship was set on fire. He then returned to the ship and received news that it had already departed. Sekiya canceled his trip to Uchiho and returned to Shana to strengthen its defenses.
On April 29, a Russian ship arrived in Shana port. The Bakufu officials, rejecting the opinion of the Hirosaki and Morioka commanders, who insisted on immediate hostilities, first sought an opportunity for dialogue by having Kawaguchi Yosuke, an interpreter under the Hakodate magistrate, wave a white flag and welcome the Russian soldiers as they attempted to land in short boats. However, the Russian soldiers ignored this and immediately opened fire on the Japanese side after landing, wounding Kawaguchi with a gunshot wound to the groin. The Bakufu officials finally acknowledged the difficulty of dialogue and ordered the Hirosaki and Morioka soldiers to return fire, but the Japanese struggled against the overwhelming difference in firepower. As evening approached, the Russians returned to their ships and threatened land with naval gunfire. Commanders Toda Matatayu and Sekiya Shigehachiro, disillusioned by this overwhelming disparity in military strength, decided to abandon Shana and retreat.
254 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 16:11:45.89 ID:733kgyxx0
>>253 >>250 This incident marked the beginning of the flourishing Bunka culture and a renewed awareness of the importance of national defense in a seemingly peaceful Japan. The Edo Shogunate's leaders became aware of the threat posed by Russia, and the Shogunate subsequently sought to maintain its isolationist policy and strengthen its national defense.
Furthermore, tensions in Japan-Russia relations forced the Shogunate to adopt hardline policies both at home and abroad in order to maintain its prestige.[citation needed] This led to the Golovnin Incident of 1811. Furthermore, this incident is said to have inspired Hirata Atsutane to pursue the study of Japanese classics.[1]
In 2010, a study by the Historiographical Institute of the University of Tokyo revealed that many of the items seized from Japan by Russia during the Bunka-Russian Raid were given to the Russian government and are currently housed in the Kunstkamera Museum of Anthropology and Ethnology in St. Petersburg.[1] The items included armor, swords, spears, guns, and other weapons belonging to the Nanbu soldiers, as well as everyday items.
One of the three confiscated cannons, a Franchi gun, bore a seal with the letters "FRCO" written in overlapping letters. This seal, representing the baptismal name of "Francisco," is thought to be one of the "Kuni Kuzushi" (country destruction) techniques used by the Christian feudal lord Otomo Sorin. [2]
261 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:00:23.15 ID:IHV/uf0pd
よおし、このスレで知ったことを20:00~の実況でドヤ顔披露するぞお
287 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:01:51.26 ID:EAihNeA90
>>261
じゃ、いっぱいウソ知識書くね(´・ω・`)b
301 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:02:22.04 ID:dXw2kdJQ0
>>261
4Kで見たことをここで披露する者はおらんのか
747 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:18:59.92 ID:94M3S0HR0
>>261
野暮はしなさんな
399 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:05:28.44 ID:85REbtP30
源内と一橋はどういう関係なんだろ
433 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:06:30.38 ID:JeCIMID70
>>399
何か因縁薄いよな
474 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:07:34.84 ID:Wvs60JLb0
>>399
七つ星の龍の話で一橋の悪事をバラそうとしたから?
531 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:09:57.34 ID:3QppDX/60
>>399
このドラマ内では治済の手の者(丈右衛門)に薬盛られて殺人の冤罪で投獄されて毒殺されたよ
486 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:07:54.14 ID:q023LOY2M
上ロリ(´・ω・`)
502 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:08:22.90 ID:QtRCGYiz0
>>486
黙れロリ
516 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:09:03.00 ID:UhJQ0+fM0
>>486
年齢で決まるの
532 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:10:02.34 ID:062FeT/r0
>>486
人形上ロリ

・・・ふむ
758 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:19:32.78 ID:6sMv8EsQ0
源内って亡くなって10年以上経過してるけど、顔見知り以外はとっくに世間から忘れられてるんじゃねえの?
791 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:20:23.54 ID:ldQAieGW0
>>758
10年前に亡くなってると
現代社会でも忘れられちまうな
800 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:20:39.33 ID:EAihNeA90
>>758
まあ一時は有名人だったし
それが罪人になって獄死だから覚えてる人は多かろう
874 : 衛星放送名無しさん: 2025/11/23(日) 18:22:34.47 ID:3iWCe8Vp0
>>758
おれたちだっていまだに知ってるじゃない……
何百年後だ
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